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会話のテンポを切断する「間」は、どのような役割を持ちえますか?①その前のセリフを立ち止まって着目する(=内容)と、②切断することで逆にテンポが良くなる(=形式、聞きごこち)の2つを考えましたが、どのように使用すべきでしょうか?
まず私があげた「間」についての2つの役割を詳しく点検していくことから始める。ひとつめの「その前のセリフを立ち止まって着目する」という役割だが、「その前のセリフ」とは、行われている会話の中で違和感を(登場人物と観客が)抱くものである。あるいは違和感のない会話の中にも、あえて間を作ることによってそのセリフが違和感を抱くような「重いセリフ」になる。本作の一部を引用する。
小柴「失いますよね。ロストしますよね」
平山「ん?ロストっていうのは。」
小柴「あ違います、英語で。言っただけです。」
平山「ああ、そういうことか。」
無粋は承知で分析をしてみる。小柴が「失う」ことを「ロストする」と言い換えたことに対して平山が違和感を抱きその意図について聞き返すと、小柴は「英語で言っただけ」だと説明する。小柴は平板な会話の中で、あくまで内容の共わない相槌として平山に「ロストしますよね。」と答えるわけだが、それによって滞りなく流れていた会話が平山の違和感によって打ち切られる。そしてそれが、「失う」と「ロスト」という単純な言い換えがなんとなく面白く感じられることに気づく。これが1つめの役割である。
では2つめの「間があることでテンポが良くなる」とはどういうことか?
音楽において「音を抜く」という表現がある。一定のテンポで音楽が流れている中、パッとある一瞬間だけ全くの無音になる、あるいはあるパートの音やある音域の音が消える。この手法は特に、ある一定のビートを連続してループさせることで成立するミニマルミュージックで頻繁に用いられる。本作にもこのような「音を抜く」こととしての間が使われている。
戸塚「なんていうかメンヘラ系ですよね。」
林「あ、私がですか?」
戸塚「はい。」
林「あ、でもそうかもしれない。」
戸塚「あはは。」
林「あはは。」
ここでは林の「そうかもしれない。」のセリフとそのあとの2人が笑うセリフの間に明確な間がある。しっかりとセリフが聞き終わって一拍あってから笑いが起きる。公演を見ている中で、観客の笑いが役者の笑いを追い抜く場合もある。ここでは先ほどのようにセリフを際立たせるための間ではなく、「音を抜く」ことによって平板なテンポに起伏を与える役割を果たしている。
ここで気になったのは、私はこの2つを「セリフの意味を強調させるか、会話のリズムを展開させるか(聞き心地をよくするか)」という、内容と形式の二項対立で捉えてきた。しかしその2者の間に明確な線は引けるのだろうか?林がメンヘラ系だということをその場では了解したことについて観客の注目を引きたいとも、平山が小柴の言い方に違和感を覚えることが平板な会話で「音を抜く」働きをしたとも解釈できうる。セリフをどのような仕方で適切に配置していくのか。セリフの意味内容によってなのか、音楽的な聞き心地によってなのか。
この問いを、以前私が日誌の中で書いた文章(「[日誌]6月13日『木星のおおよその大きさ』5 音ゲーと発語」)の中で考えて見たい。私はあるリズムゲームの特徴から「ビートマニア的」「パラッパラッパー的」という2つの形容詞を提案した。
「ビートマニア的」発語とは、セリフをその意味は関係なく、音としてあるいは単純な物質として適切に配置していくようなタイミング重視の発語の仕方である。わたしが適切な相槌を打つことによって相手も話しやすくなり、それにわたしが相槌を打ち、すると会話はリズムを生み出しグルーヴを生み出す。
しかし犬飼さんはこのような発語を否定的に捉えている。「重要なのはタイミングではなく意識の流れである。」とした上で、その「意識の流れ」を「ディテール」と「ニュアンス」という言葉で説明をする。
普段私たちは頭で考えたことを言葉にして発するから、普通に「ディテール」が想像されている。しかし脚本は文字として作家から渡された他人の言葉だから、この「ディテール」が抜け落ちることがある。もちろん、「ディテール」があった時のほうがセリフは断然、面白く発されることになる。
このような、脚本の背景にある登場人物の設定や場所、明示されるものについての具体的な把握の必要性を説く。そしてここからさらに「ニュアンス」の話へと発展する。「茶色い靴」と役者が言うとき、それは「茶色い靴」でなければならず「黒い靴」であってはならない。したがって役者は「茶色い靴」と言う時、それは「「『黒い靴』ではない靴」ことも含意しなければならない。単純な文字の連なりである戯曲から「ニュアンス」を抽出することがさらに重要であると犬飼さんは書く。(「『木星のおおよその大きさ』に関して③ディテールとニュアンス」)
この「ディテール」と「ニュアンス」の2つの工程を経た上での発語を、私は「パラッパラッパー的」と呼ぶ。流れてくる音楽と譜面はそのままあるのだが、その指示を破って「アドリブ」することでポイントを得ることができるというシステムが採用されている。譜面にないが音楽的には良いタイミングで何らかのボタンを押すことによって譜面通りに操作した時には取れないような高スコアを取ることもできるというのだ。音楽と譜面の細部までの理解をして初めて、「ここでこう押してもアリなんじゃないか?」という役者の正しい「アドリブ/揺れ」のトリガーを引くことができる。ここで、「譜面と戯曲」「音楽と舞台上での会話」は対応関係にある。犬飼さんが求めるのは譜面通りにボタンを押すことではなく、譜面と譜面を基礎づける音楽それ自体を吟味し(「ディテール」と「ニュアンス」を捉え)、その上で押すボタンやタイミングを変えるという「アドリブ」なのだ。
役者の渡邊さんが22日のソワレ後にこんな話をしていた。今までは「ディテール」を掘り下げていくことで、ある一つのセリフに様々な情報を乗せることができた。しかしそのような情報をあえて隠すことによって、「氷山の一角としてその全貌を表させない」ことで今までよりも良い発語ができた。私にはこのように聞こえた。渡邊さんの出演する3場は、その場には登場しないがおそらく近い関係にあるだろう人たちの名前が過剰に出てくる。それゆえその1人1人のディテールを設定する必要があり、この作業はとてつもない量に思える。しかしその圧倒的な量のディテールをあえて隠し(セリフを軽くし?)、あくまで「(他のそれらではなく)これである。」というニュアンスをセリフに載せることで、譜面/戯曲を演奏する/上演するということに成功したのではないかと考える。