本番がいよいよ今週に迫った。稽古の回数が限られいよいよ作品の輪郭を固めなければいけないこの状況で、この「演出ノート」はどのような役割を果たすべきかを考えた。そしてそれは先日私があげた『「木星」についての疑問点の列挙』の問題を思考しその過程を記述することだと行き着いた。当初は、本作の形が決まり始めていく中でもう一度作品自体に着目できるようなフックを役者の方々や演出部へと、あえて疑問文の形でシンプルに提示できれば良いと狙っていた。しかしそのような疑問を思考することで本作の全体像を「演出ノート的」に表現することもできるようにも思った。
2.
ジェンダーバイアスや喫煙など、今日シリアスに語られやすいモチーフを(あえて)扱うことに必然性はありますか?
アメリカの哲学者ジュディス・バトラー(1956-)は、フェミニズムの流れが、より広域な女性の社会的政治的なポジションを獲得しその立場を強固にしていくために様々な言説を産出し運動を広げていくことを、強く危険視している。それは、その「女性」についてあるいは「ジェンダー」や「セックス」について新たな言説を生み出すという営みそのものが、すでに男根ロゴス主義に絡め取られているからだとする。必要なのは言説に隠蔽されている権力を摘発し、言説のシステムそれ自体を撹乱していくことであると主張する。例えば、生殖行為という目的のために男女が恋愛関係に陥り性行為を行うという行為があり、男性と女性の対称性は、生物としての生殖本能に根拠を持つ。このような主張をバトラーは退ける。バトラーによれば男女の関係は非対称なものであり、このような主張も「ジェンダーアイデンティティ」の確保という目的のために、生殖行為のため、文化的な生物以前の生物としての人間を想定した上での生殖行為という目的がでっち上げられており、男根ロゴス主義の恣意的な本来性によって歪められているのだと言う。
そして作り出されたジェンダーは、人々の様式的な反復行為によって徐々に強固なものになっていく。あくまでパフォーマティブな日常の身振りや様式が、その反復によって私と言う人間の本質的なアイデンティティを基礎づけ、しかもそれが永続的な(これまでそうありこれからもそうでありつづける)ものとして錯覚させられる。
『木星のおおよその大きさ』は、かなり自己言及的なメタシアターとしての側面が強い。舞台美術はほぼ皆無の素舞台で、役者が身につける衣装も場所に特定されるようなものではない。しかしそこはオフィスの会議室になったり喫煙所になったり男子トイレになったりしており、舞台や劇場それ自体としての現実とそこで行われている世界や空間としての虚構の間にずれがある。このずれとはつまり「そこには何もないはずなのに何かがあるてい・・で人が生活している」という、演劇が本来的・・・にもつ滑稽さのことである。そして今作は、そのような滑稽さを強く自覚した上でコメディとして大きく増幅させることを狙っている。演劇はそもそも、役者や観客が「ここはそこではない」ことを了解しながらも「ここはそこである」という共通の認識を得ることによって初めて成立する芸術である。舞台上が観客にそのように見られるように配置され、観客は役者の身振りや照明、舞台美術品を通してイメージを構築し舞台上にそれを投影していく。そのような舞台と観客の間でのコミュニケーションと創造によって演劇は成立する。そのような関係の中で実は、観客は舞台上のものをそれとして強制的に見せられているわけではなく、同時に観客が自由に舞台上のものを認識し自由に解釈しているわけでもない、ということが判明する。舞台上と観客は「見る-見られる」の対称的な関係を持たない。このような点において演劇とジェンダーの問題は接近してくる。
さて、バトラーは表層的な身振りの反復によって本質的なジェンダーアイデンティティが形成されるという逆説的な現象にどのように対峙していくべきかを考えているのか。以下該当すると思われる部分を引用する。
したがってジェンダー化された永続的な自己とは、アイデンティティの実体的な基盤の理想に近づくように、反復行為によって構造化されたものであることが判明するが、他方でその反復行為は、時折起こる不整合のために、この「基盤」が暫定的で偶発的な<基盤ナシ>であることも明らかにするのである。ジェンダー変容の可能性が見出されるのは、まさにこのような行為の間の任意の関係の中であり、反復が失敗する可能性の中であり、奇-形の中であり、永続的なアイデンティティという幻の効果が実は密かになされる政治的構築に過ぎないことを暴くパロディ的な反復の中なのである。
ここでは「時折起こる不整合」「反復が失敗する可能性」「奇-形」「パロディ的な反復」が重要な鍵を握っているように見える。バトラーはこれ以上具体的には語らないが、それは「ある身振り」と「女性性」が調和をもったテンポの中で成立し続けていく中に、ある種の不具合を発生させていくことであると考える。それは演劇という形式においては、「見せるものとしての舞台上」と「見る主体としての観客」の間の安定している(ように見える)関係性の反復を失敗させることである。そのような意味で本作は演劇の形式自体の脆弱さをつきながらも、それを滑稽なものとして回収することに成功している。
このような、フェミニズム批評と演劇という芸術様式の重なり合う地点によって当初の疑問であった必然性の問題については解消されたように思える。しかしやはり未だ疑念が残るとすれば、フェミニズムが目指す男根ロゴス主義への撹乱とは、形式への自己言及なのだろうか?芸術一般においてはマルセル・デュシャン以降芸術の世界は言語ゲームへと姿を変え、ゲームでその作品がいかなる場所に位置付けられるかという点がその作品自体に内在されていなければならないといった観点が登場する。「全てのアートはメタアートである」というテーゼはこのような背景から来ている。全ての芸術作品がメタであり自己言及的であるとするならば、全ての芸術作品はフェミニズムを扱いうると言えるのか?そのような疑念が未だに残っている。
*参考文献
ジュディス・バトラー『ジェンダートラブル』(訳竹村和子,青土社,2018年)