[日誌]6月13日『木星のおおよその大きさ』5 音ゲーと発語

  • 「『ビートマニア』的発語」

稽古の方向性として、現状からどんどんセリフをごちゃつかせていくことが軸となった。セリフとセリフの間が全体的に長かったり極端に声量が大きかったりして、言葉が立ってしまうと、今回の作品では違和感が強く感じられる。それはセリフ自体が内容を伴わないものだからだ。全体として『木星のおおよその大きさ』は、とある状況をそのまま舞台上に持ち込むようなものでも、何かの主張やメッセージをアレゴリーとして説明する再現/表象の演劇でもない。これらのセリフは特定の何かについての描写に徹しているわけでは全くない。したがって一つで自立することなく、常に前後のセリフや全体に依存することになる。言い方を変えれば、一つ一つのセリフが他のセリフあるいは台本全体に依存しているという構造を空間的に成立させることがグルーヴを生むことである、と言うことができるかもしれない。

さて、内容のないセリフを発語するためにはどうしたら良いだろうか?内容がないということは、単純に音としての言葉のリズムを考慮した上で聞き心地の良さを追求する。タイミングを重視するようになるということだ。

時に、人との会話を音ゲーのように感じることがある。相手が話している最中、適切なタイミングで相槌を打っていく。わたしが適切な相槌を打つことによって相手も話しやすくなり、それにわたしが相槌を打ち、すると会話はリズムを生み出しグルーヴを生み出す。この時相槌を打つわたしはほとんど相手の話の内容を聞いていない。「へえー」や「なるほど」や「そうなんですか」など汎用性のある相槌を、会話のテンポの中で適切に打っていく。実際このような相槌にはそれ自体として内容や意味は伴わない。

このような意味関係なく音として、あるいは単純な物質として適切に配置していくようなタイミング重視の発語の仕方を、犬飼さんは『ビートマニア的発語』と呼んでいた。しかし犬飼さんはこのような方法を批判し、大事なのは意識の流れである、とする。

各パートに分かれた楽譜のような脚本は、視覚的にタイミングを要求してくる。結果、タイミング重視のビートマニア的な発語になってしまうのでは…と予想している(やったことがないのであくまで予想なのだが)。重要なのは、タイミングではなく意識の流れである。セリフを言っている時と黙っている時が同質であるような状態(つねにONの状態)を作り出しておくこと。そのために、「ライン」は完全に視覚化されて提示されるのではなく、俳優の頭のなかにぼんやりとつくり出されているような状態がちょうどよいのでは?というのが現時点での考えだ

(「犬飼日誌まとめ② 『ライン』について」http://kyunasaka.jp/inukai_plus)

  • 「『パラッパラッパー』的発語」

「パラッパラッパー」とは1996年に初代プレイステーションから発売されたリズムアクションゲームである。音楽に合わせて指示されたボタンをタイミングよく押すことで、主人公のパラッパが巧みなラップを披露し様々なキャラクターたちと対戦(セッション?)して行くゲームだ。いたって普通のリズムゲームのように見えるこのゲームをわざわざ紹介したのは、このゲームのストーリークリア後にある「COOLモード」がかなり特徴的なものだからである。

COOLモードでは流れてくる音楽と譜面はそのままあるのだが、その指示を破って「アドリブ」することでポイントを得ることができるというシステムが採用されている。譜面にないが音楽的には良いタイミングで何らかのボタンを押すことによって譜面通りに操作した時には取れないような高スコアを取ることもできるというのだ。つまりシステムには、①譜面に則ったポイント②譜面にはない「アドリブ」におけるポイントの2つがあるということだ。COOLモードでは正解のアドリブのポイントがすでに設定されているため、ただ無茶苦茶に譜面を無視してボタンを押せばいいというわけではない。

プレイヤーは流れて行く譜面を見ながら、「ここでこれを押してみるとどうなるだろうか?」という好奇心とそこからくるトライアンドエラーを楽しむことになる。譜面の外に開かれている世界を少しずつ探検し、得られた成果からまた探検へと出発して行く。そんな循環的な攻略によって、流れる音楽と譜面はいつも同じであるにもかかわらず、プレイの体験は毎回異なる。そんな奥深さが『パラッパラッパー』にはあるのだ。

おそらく犬飼さんはこのような「アドリブ/揺れ」を期待しているのではないだろうか?

内容のないセリフが相互に依存し合うことによってアクチュアルな状況を立ち上げるためには、そのような内容のないセリフ一つ一つを台本全体の中から解釈しそれを意識して発語することが必要だとする。音楽と譜面の細部までの理解をして初めて、「ここでこう押してもアリなんじゃないか?」という役者の正しい「アドリブ/揺れ」のトリガーを引くことができる。「揺れ」を認めたからと言って何でもしていいわけではなく、そこには正しい「揺れ」と悪い「揺れ」がある。ここで唯一ゲームと演劇が違うのは、その判断が元からシステムに組み込まれているかもしくは稽古場の中で暫時的にかつ民主的に決められていくことである。

1998年生まれ 千葉県出身 上智大学文学部哲学科在学中 過去作に『ディスプレイには埃がたまっている』(wwfes2018 演劇コンペティション「演劇のデザイン」参加作品)