[日誌]5月27日『ふたたび接近する木星』4

 稽古場で台詞を読む際、実際の立ち位置でト書き通りの行為をしながら読む場合と、座った状態で読む場合とがある。その時にある「差」が生じる。その差を犬飼さんは「座っているときは粒子が分散していないが、立ってやっているときは緩くなる。型を外した時に崩れるみたいな。」と表現していた。

 座って読むとき俳優の意識は主に発話に向かっているような気がする。その時に流れてくる声は言葉の「意味」と「音」とが心地よく一致しているように思う。つまり、「どこかで聞いたような発話」にちかい。普段生きている、いわゆる日常の再現がそこにある。

起立したときの演技は当然ながら全身に意識が向かう見ている方も俳優の全身をとらえる。発話する器官は口から全身へと変わる。そして観客の視線の先には「劇場」という空間も広がり始める。

演劇の粒子とは

冒頭の犬飼さんの言葉における「粒子の分散」とはどういうことなのか。

俳優は起立しながら意識を全身に向ける。見るほうも意識を点から面へと移行するように「空間」自体を見始める。その際、座って台詞を読んでいるときよりも言葉に対しての集中力は切れる。「戯曲の内容の伝達」のレベルから「戯曲の内容の表現」へのレベルに移行するのかもしれない。そのメディアは「口」から「全身」へ移行する。演劇における粒子とは「内容」のことなのかもしれない。今はそう仮説しておく。ただこの内容という言葉もあいまいで言葉を「粒子」というものから入れ替えただけである。「型」というものがなにかを明確にしたらなにか新たな表し方が生まれるかもしれない。

1995年栃木県生まれ。 立教大学現代心理学部映像身体学科、卒業。 2016年に同学科教授・松田正隆氏が代表をつとめる、マレビトの会のプロジェクト・メンバーとなる。フェスティバル/トーキョー16主催プログラム『福島を上演する』に演出部として参加する。(2018年現在、マレビトの会演出部に所属) フェスティバル/トーキョー17「実験と対話の劇場」では、演劇作品『驟雨』(作・演出)をあうるすぽっとにて上演した。