[日誌]5月26日『ふたたび接近する木星』3

稽古場に入ると、書き直された戯曲が配られた。

この稽古場ではいつも新しい戯曲が配られる。書き直されるたびに「今回はどんなのだろう」と楽しみでもある。そして新しい戯曲はいつも違う顔をしている。「初めまして」という感覚がこの稽古場の新鮮さを保っているようにも思える。

早速、いつものように本読みが始まった。一番最初の本読みは13分間あった。いつも同じ俳優で本読みをしているはずなのに台詞が異なるため、当たり前だがはじめての本読みはぎこちない。どんな相手の俳優がテンションで発話するのか、言い慣れていない言葉回しを口にすること、間はどのくらいあけたらいいのか、色々な壁が「初めて」にはある。俳優はその「初めて感」を消したり、あえて残したりする。そのコントロールをするのに俳優の身体が大きく関与していると思う。その考察はもう少し時間をかけて行っていきたいと思う。

 

 

どの「土俵」にのせるのか?

新しい戯曲の中では対人関係における問題について触れられている。その一つにいわゆる「マウンティング」がある。この言葉の辞書的な意味は「相手に乗りかかる、のしかかる行為を意味する。動物が交尾のために背後から乗りかかる体勢、あるいは、サルやゴリラなどの霊長類が自分の優位を顕示するために相手に乗りかかる体勢。」というものだが、対人関係におけるこの言葉の使われかたは「相手をそれとなく貶め、自分が優位に立とうとする行為」のことを指す。つまりこの行為は他者と自分を比較検討することから始まる。そしてその比較は自分と他者を何らかの同じ「土俵」にのせる行為でもあると思う。するとその土俵の割り振りは「女」「男」、「先輩」「後輩」、「若者」「年配」、「既婚」「未婚」など二項対立する名詞における比較がメインとなる。その土俵の数は今や数え切れないほどあると思われる。そしてその土俵には大体が、暴力的にあげさせられる。そしてその勝敗の蓄積が社会的な「格付け」へとつながってくるような気がする。

そこに特異性のある「個」というものの存在は排されている。「個」の集まりが社会であるような気がするが、組織が大きくなればなるほど「個」は死滅する。表現というものをもってしてそのことに抵抗できないだろうか。そんなことを考えた。

 

 

1995年栃木県生まれ。 立教大学現代心理学部映像身体学科、卒業。 2016年に同学科教授・松田正隆氏が代表をつとめる、マレビトの会のプロジェクト・メンバーとなる。フェスティバル/トーキョー16主催プログラム『福島を上演する』に演出部として参加する。(2018年現在、マレビトの会演出部に所属) フェスティバル/トーキョー17「実験と対話の劇場」では、演劇作品『驟雨』(作・演出)をあうるすぽっとにて上演した。