『木星のおおよその大きさ』に関して②
話し言葉の話

もしかしたら、かつてここには「巨大な集落」が、きっとあったんだと思う。

犬飼勝哉『スポット』

これはかつて自分で書いた脚本の一説なのだが、このセリフを書いた時に、なんというかとても気に入ってしまった。

このセリフのどこが良いのかというと、セリフの途中で発話者が思い直しているところだ。「もしかしたら、かつて~」と喋り始めた発話者は、発話の途中で確信を深め、「きっとあったんだと思う。」と終える。つまりワンセンテンスのなかに時間の流れが存在する。

これは話し言葉の面白さのひとつだと思う。文字として書かれた言葉は痕跡が文字として残る。しかし話し言葉は口に出された途端に消えていき、次にくる言葉に上書きされる。この面白さを、上のセリフは一文のなかにあらわしている(と思う)。

声に出して発される言葉は、上記のような性質からくるジョイントの緩さをもつ。これを使って、書き言葉にはできない自由さを生むことができる。

息の長い寒さの国からの一団が  四季のないかわいた街角の道ばたに
よく言って聞かせる左右の鼓膜の周りに 保守的なモラルが書くコラムの金網に

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)『時代は変わる』

ラップのリリックというものは、声に出される言葉の今では筆頭だと思う。引用したのはTHA BLUE HERB『時代は変わる』の一説だが、この箇所のジョイントがどうなっているのかいつもわからない。

「息の長い寒さの国からの一団」が「四季のないかわいた街角の道ばた」に「よく言って聞かせる」、というところまではわかるのだが、その後に「左右の鼓膜の周りに」「保守的なモラルが書くコラムの金網に」と、「よく言って聞かせる」対象がふたつ並んでいる。

実際に曲を聴くとこの箇所のジョイントが本当に不思議だ。「左右の鼓膜の周りに」と「保守的なモラルが書くコラムの金網に」という並列は、「よく言って聞かせる」から引き出されている。そしてその時には「四季のないかわいた街角の道ばたに」というフレーズは、すでに消えてしまっている。音として声に出される言葉は、降り積もる。

書き言葉は痕跡を残し、話し言葉は次々と消えてゆく。書き言葉は線的であるのに対して、話し言葉は堆積である。この対比はそのまま、脚本と上演の関係についても言えそうだ。

上演は何もないフラットな平面に堆積してゆく。発された言葉や行為は次にくるそれによって上書きされる。この上書きの繰り返しによって形成され、やがて終演する。ここには書き言葉にはない自由さがある。

せっかくそこにある自由を、なにも書き言葉つまり脚本によって、縛りつけてしまうことはないと思う。しかししばしばそれは起こる。拠り所となるものが文字として記録された脚本であるため、意識がそこにすがってしまう。

マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。

ガルシア=マルケス『百年の孤独』

補足的にもうひとつだけ。
これは小説からの引用だが、ガルシア=マルケスの小説はとても話し言葉的だと感じる。つまりフレーズが堆積している。「先史時代のけものの卵のようにすべすべした」という石の描写から始まり、その上を流れる水の、そしてその川のほとりにある村の様子に、一文のなかで視点が移ってゆく。

そして「先史時代」という言葉の印象が、まるで先史時代の話をしていたかのように、このセンテンスに貼りつく。この妙な貼りつき方が、話し言葉のもつ自由さのようだと思う。

劇作家・演出家。 愛知県出身。 2007年-2015年、演劇カンパニー「わっしょいハウス」にて、主宰・劇作・演出として活動。現在は個人名「犬飼勝哉」として作品を発表する。