[論考]海岸線に立つ

現代の世界を遠くから見ている者—現代の世界に対して言わば死者である者—、数世紀の間に急速に次々と押し寄せた大きな波達に照らして現代の世界を見ている者、この者は、今しがた通り過ぎた新たな波が後に多くの難破者を出し、彼らが波のさった後に残された漂流物にただしがみつくばかりになっているのを見て、笑うのだ。この者は、荒々しい波の連続しか見ない。諸時代のそこから際限なく現れては、脆い絆や硬直した言葉を圧倒して通り過ぎてゆく、そういう荒々しい波の連続しか見ないのだ。

誠にこれは、あまりに巨大な光景であって、彼を不幸にする。彼は打ちのめされ、絶息してしまう。だがこの光景を見るまでは彼はまだ人間ではなかったのだ。叫びを抑えられないほどの簡単を彼はまだ知らなかったのだから。

(ジョルジュ・バタイユ 『有罪者(1944)』) 

「記述という演出」の中で犬飼さんは以下のようなことを言っている。

上演は毎回フラットなゼロの平面から始まる。セリフや仕草がそのゼロの平面に積み重なってゆく。積まれたものの上に次のものが積み重なって意味の連鎖を生む。そのため微妙な積み方の違い、あるいは積まれるもの自体の違いによって、終演後には毎回形の異なる全体像があらわれる。

ここでの「(出演者の)微妙な積み方の違い」のことを犬飼さんは「揺れ」と呼び、またそれを演劇作品の上演において積極的に肯定する姿勢をとっている。それは、既存の演劇作品の作り方、あるいは既存の稽古場における権力関係とはその性質を大きく異にする。それは演出家が、自らの戯曲の解釈を基にしたプランニングを出演者に強制し、そこから逸脱するものを不純物として取り除いていくような演劇の作り方である。したがってこのような演劇は、人為的に限りなく同じ舞台空間を複製するような反復の営みになってゆく。この方向性のある臨界点として平田オリザ氏のアンドロイド演劇が考えられるが、今回の議論ではやや脱線してしまうので割愛させていただく。

しかし犬飼さんは「揺れ」を肯定した演劇を作ろうとしている。では「揺れ」とは何か。それは人間の有限性のことであると考える。どうやっても私たちは全く同じ演技を2度と繰り返すことはできない、そして同じ演技をやろうとしているのに何回やってもそこからはみ出して行ってしまう。この2点が我々人間がもつ限界であり、機械技術との決定的な差異である。ここから、「揺れ」を認める犬飼さんは、人間の有限性を認識しそれを演劇を通じて引き受けようとしている、とは言えないだろうか。

別のアプローチをしてみる。犬飼さんは以下のようなことも述べている。

時間は積み重なるもの。これまで積み重なってきたものに、また新たに積み重なること。これは作品のリハーサルにおいても同じことが言える。稽古場での積み重なりが最終的に作品となる。

また、稽古場で犬飼さんが唯一(?)全ての役者に共有している話がある。それは、演劇をするということは台本の流れという1つのノリに役者が自分を投入していくことではなく、あくまでそれぞれの登場人物の意識の流れが独立してありそれが舞台空間に共存している、ということである。

この2つで犬飼さんがしているのは、「1つ」に集約されない物語・空間ということである。時間は、舞台を貫く大きな一つの矢印ではなく、また登場人物の意識は、台本の流れという1つの物語に帰属するものではない。一般化して言えば、「私は、私という意識において、私の中の時間を経験する」。犬飼さんはこのような人間のイメージをもとに、それを妨げ隠蔽してしまうような人為的な操作を放棄した。「揺れ」を認めるとは、このようなことなのではないだろうか。

僕はふと、幼い頃に自分が海岸線に立った時のことを思い出す。そこは砂浜ではなく岩場で、ゴツゴツとしたやや黒っぽい岩の上を僕はビーチサンダルで危なっかしく歩いていく。岩場に押し寄せる波は、大きかったり小さかったり、勢いがあったりなかったり、形もまちまちである。そんな寄せては返す波が、長い年月をかけて岩を少しずつ砕いていく。僕は今、その岩の上に立っている。

日本の美学者の佐々木健一氏は、「自然美」を「我々を包む大きな光景の中で、全身の感覚を通し、感嘆の念をもって捉えられた、存在の無限性のことである」と定義する。また、自然の圧倒的な存在とその無限性を前にして私たちは「自己の矮小さの知覚」をする。そこから自然は、「我々の全身を、すなわち我々の存在そのものを包み込むものとして現れ」、我々に「愉悦を覚え」させる。私の幼少期の海岸線での思い出は、私が海という大きな存在の中に取り込まれるような、自然美の原体験と呼べるものである。

人間の有限性を認めた上で創作をするということは、今まで芸術と呼ばれてきた人為的な技術から引き起こされる美だけでなく、以上のような自然美をも空間に立ち上げていくことができるのではないか。それは技術的人為的な美が、人間が自らを「人間的」という理想像に近づけようとするということを前提にするからである。『木星のおおよその大きさ』は、人間ではなく、文字どおり「木星」を描写し、「木星」を立ち上げる。

1998年生まれ 千葉県出身 上智大学文学部哲学科在学中 過去作に『ディスプレイには埃がたまっている』(wwfes2018 演劇コンペティション「演劇のデザイン」参加作品)