[日誌]5月1日『木星の日面通過』1 まなざすこと

日中はとても暑かった。稽古はじまりに、冷房をすこし入れる。座って本読みを一回、残りは立って稽古。今回は主にト書きについて考えることが多かったので、以下いくつかに分けて。

■脚本の中の演出要素をどう捉えるか―「去る」について

このようなト書きがある。

===

C、去る。

しかし舞台上には残り、また先ほどの位置で二人を見ている。

===

日面通過では存在として「いる」ことがつきまとっている。例えば、上のようなト書きがあった時の居方。人物の存在としては去るが、その俳優の目線や身体が居残る。特にまなざしは舞台の話者との関係性にも関連する。

まなざすことにより、話に干渉しない者 / 干渉する(話してくる)者に分かれるが、犬飼作品では前者が採用されている。まなざしながら話に干渉しない存在は、その舞台での存在者でありながら、第三者(=観客と同じ立場と捉えることもできる?)である。

居方についての演出指示は特になかったが、俳優は、「人物としては去りながらも、舞台には居る」と戯曲中で指示されていることを、どのように捉えているのだろうか。「なんでもできる状態だから二人に接近しても構わない」との指示もあった。たしかに「いる」と感じたのは、存在(足で立っているという身体性)に依るものなのか、まなざしに依るものなのか。

 

■俳優と戯曲

この作品は約1年前に発表したもので、それを別物として立ち上げることを目標としている。

以下のト書き箇所、

===

A、右のセリフのあいだ、煙草を何本も捨てる。捨てるペースはどんどん早くなっている。

(AとBのセリフ、中略)

A、喋りながらだんだんと、煙草を吸殻入れに捨てることが目的のようになっている。

可能ならば、箱から吸い殻入れに直接ばらまくようなこともする。

===

俳優の浅井さんの所作がとても素敵だったのだのだが、戯曲で書かれている「捨てることが目的化する」が身体を通して具体化されて立ち上がっていた。それは捨てるタイミングや間のとり方が関係しているのは勿論で、最後はばらまくことも「可能」になっていた。なんでもできる状態には、まなざしが関係しているとは感じているのだが、どこかでこのト書きが信頼の上でむすばれているような気もしたのだった。

(最後に立ち稽古がはじまる前、排水口から猫を見つけるわっしょいハウス時代の作品の身体をしていた浅井さんの写真を添えます。)

■抽象化された小道具(―伝統芸能エア煙草)

木星の日面通過の主な小道具はバケツとタバコ。犬飼さんがバケツを持って、浅井さんがタバコを買ってきた。タバコは実際にふかす訳ではなく、エア。ふかす所作をする訳でもなく、手に持っているままセリフを喋り、時折、投げ捨てた際にバケツの音がする。戯曲中に、「間」の指示があるが、「間」の瞬間に小道具の存在を感じる。「間」を休符として捉えている。

 

1996年生まれ。高知県出身。 大学入学とともに演劇活動を開始。明治大学文芸メディア専攻在学中。現在、無隣館三期演出部に所属。2017年カンパニーメンバーを持たない形で、演劇団体ムニを立ち上げ、主宰。出演作に、高山明演出『ワーグナープロジェクト』。ムニでは劇作演出を行う。